昭和44年8月28日 若葉の集いでのご挨拶
私達人間がたった一人で生活ができるなら、どういうわがままでも、どういう勝手でも許されるのですけれども、私どもはそういうわけにはいきません。皆が助け合い、手に手を取り合って、より幸せの為に生活をしていかなければならんのです。
例えば、今晩の「若葉の集い」が、先生は、ああいう催しを去年見せて頂いたのが始めてで、どういうことをするのか、と思っておったら、ほんとに楽しい、まあ言うならば、皆さんのこりゃ祭典だと先生は思いました。御大祭と同じだと思いました。皆も祭典一生懸命で、皆さんが力を合わせて協力一致するところに、あのような催しができる。
それを今年、まあ二度目をまあ見せて頂くわけですけれども。そういうような手に手を取り合っての楽しい集い。いわゆるキャンプファイヤーなるものが開かれる。それが私どもの生活の上にも、社会の上にもそういうおかげを頂いていくということがです、いよいよ私は、おかげが頂けれる道であると。
神様がお喜び頂けれる良い氏子にお育てを頂くということは、私は、ひとつの「和」というか、手に手を取り合ってお互いの幸せの為に、生きて行こうとする態度。そういう生き方を神様が、こよなく喜んで下さるんだと。
今晩の事を神様にお願いさして頂きよりましたら、★『末来を開く』と頂いた。素晴らしい事だと思った。
皆さんが成長だんだんされて、信心をもとにしておかげを頂いて、しかも手に手を取り合っての、今晩の集いのようなものが実社会の上にも現われていく時に、必ず確かに、これからの合楽、いや合楽じゃない。ほんとに金光様のご信心、いわゆる教団の末来を開く原動力ともなるだろう。今の言葉で言うなら、ダイナミックな働きとでも申しましょうか。そういう活力のある働きがね、皆さんの若い力で練り上げられ、できてくるといったようなことをです、今晩の皆さんの集いの中から、そういうようなことを内容として、ね。そういうように内容として、残り少ない夏を心ゆくまで、時間のくるまで、楽しく愉快に過ごされることを神様にお願いさして頂きました。
どうぞ皆さんの、こういう若々しい生き生きとした力が、必ず道の為になる、ね。神様が喜んで下さる事の為の働きになるのは、今晩のようにお互いが、手に手を取り合うてこそ大きな事ができるのだ。
人間が一人生きて行くだけならば、どんなわがままも勝手も許される。けれども、それが許されないのが実社会である。しかもそれがより楽しく、より有り難い幸せの事の為にですね、そういう私は、小さい見本のようなものだと思う。今晩の集いと言うのは。ね。
どうぞそういう意味合い、そういう内容を持っての今晩の集いでなかなきゃならんと思います。どうぞ。
明渡 孝